譜面
-寄り添う三草-
ある日、妻は私に見せたいものがあると言った。
それは、ポケモンの図鑑であった。
「貴方は、ポケモンをご存知ですか?」
「…いや、文献だけで、実物は見たことがない。」
父はポケモントレーナーという職業はしていなかったし、周りにもポケモンを連れた人間はいなかった。
「私は幼い頃、旅をしたのです。色んなポケモンと出会い、友となりました。」
「友……ポケモンと、友に…?」
「ええ、なれますよ。彼らは言葉を話さないけれど、耳を澄ませば聞こえるのです。彼らの心が、」
「心が、聞こえる…」
あっ、と妻は頬を染めて俯いた。
「…変な話を、してしまいましたね…。」
「…いや、実に興味深い。」
「でしたら、私のポケモン達を連れてきましょうか…?母の家に預けてあるのですが…」
そして、妻は自分のポケモン達を連れてきた。
「どうですか?実際に見て。」
「…思っていたよりも、大きいのだな。」
「文献では、想像し難いでしょうね。」
「……心は、聞こえないな。」
「今、お会いしたばかりですから。もっとお互い、よく分かり合わないと…」
「…そうか」
妻のポケモンを観察していると、妻は私に布にくるんだ何かを差し出した。
「これは、たまごか…」
「これを貴方に…差し上げたいのです。」
「私に、か…」
「はい。是非貴方にポケモンに触れてみてほしいのです。」
「そして是非この子の心を、聞いてみてください…。」
私は躊躇った。
ポケモンは文献でしか知らない。
いくら知識があっても、ポケモンを育てることなど一度もなかった。
だが、妻は真っ直ぐに、私を見つめていた。
「…分かった。努力しよう。」
「ええ、是非…。」
そして私はポケモンの力を知ることとなる。
人間よりもはるかに可能性に満ちた、興味深い存在であると。
そしてそれは、私がポケモンの魅力に気づき始めた頃の出来事だった。
妻は、酷く悲しんでいる様子だった。
「どうした。そのような顔をして」
「ああ…近くで、多くのポケモンたちが捨てられたと、聞いたのです。」
「多くの、とは…一体どの程度なのだ。」
「50は越える、と。それも、どれも生まれたばかりで同じ種類のポケモン、だそうです…。」
「それでは、そのポケモンたちは…」
「……ああ、こんな残酷なことはありません。その子達がどんな思いで、野に捨てられたかと思うと…」
さめざめと泣く妻。
「貴方、私は…時々思ってしまうのです。」
「何と…」
「……人とポケモンは、本当に…共に在るべきなのか、と…」
「……」
「全てがそうだとは言いません、ですが、心無い人によって辛い思いを強いられたポケモンたちを、私は忘れられないのです…」
「……」
バルコニーへ出ると、庭園に佇むポケモンを見つめ、妻は言った。
「実はあのポケモンたちは、もう私のではないのです。」
「トレーナーではない、ということか。」
「…思い悩んだ末、まだ幼いポケモンは残し、他のポケモンは皆自由にしました。」
「では彼らは…」
「それでも、私の元に残りたいと…」
その時のことを思い出してか、妻の目から再び涙が零れる。
「今の社会はポケモンが居て当たり前となっています。良くも悪くも人々はポケモンに頼り、依存しています。」
「……」
「当たり前であるからこそ、ポケモンのことをまるで道具のようにしか見ることができない人が出てくる…。」
「人々は、そんな人たちを『酷い』『許せない』と口々に言います。」
「でも、そういう人もまた、知らずとポケモンたちを苦しめているのです…。」
「……」
「世界からポケモンの存在を切り離し、今一度人々に考えるきっかけが必要だと思えてなりません。」
「ですが、そんな…ポケモンに依存した世界から、一体誰が、ポケモンを解放できるでしょうか…」
「ポケモンを…解放…」
「分かっているのです。ですが、望んではいられないのです…」
「英雄を、か…?」
「え…」
妻は驚いたように、私の方へと向き直った。
「かつてこの、イッシュの地に降り立った英雄の再来を。」
「貴方…?」
「来るべき日が…、来たのだ。」
妻は、子を身籠った。
息子であった。
妻はとても喜んでいた。
私の子をようやく授かった、と。
生まれる子には何をしてあげようか、と。
一方の私は、自分の本心が一体どちらなのか、分からなくなっていた。
どこからが妻を利用し、父の望みを叶えるための行為で、
どこからが妻に心から同意し賛同しての行為なのか。
これまで妻と長い時間を過ごした。
様々なものを妻と共有した。
それら全て、父の巨大な設計図に沿った、用意されたものだったのか。
私が見出だした、完全への数式も、また…。
違うとは、言い切れなかった。
「…貴方」
はっと、妻が私に話し掛けていたことに気付く。
「どうした、何か具合でも悪いのか。」
「また…辛そうな顔をなさっています。」
「……すまなかった。少し考え事を、」
「いいえ、いいえ。どうか謝らずに、悩みを聞かせてください。」
「………」
あ、と妻は漏らした。
「私には…話せないことでしたら……」
「いや………」
私は、言葉を選びながら妻に話した。
「……私はこれまで、亡き父の望みに応えようと、生きてきた。」
「お父様の…」
「それは今も変わらない。だが…」
「…?」
「お前を妻として迎えたのもまた、父が指し示した未来に従ったものだ…だが……」
「お前を…大切に思うこの気持ちは…この気持ちもまた、父に導かれたままなのか。」
「……」
「父は私にあらゆる知識を与えてくださった。しかし、分からぬのだ…。こうしてお前に聞かせても、まだ分からない…。」
妻は私の方へ歩み寄り、隣へと座った。
「貴方…それは、誰が導いたものでもありません。」
「それは……愛なのです。」
「愛…」
それが、完全への数式の名前なのだろうか。
「貴方自らが、私へと向けてくださったものなのですよ。」
「私、自らが…」
「愛は、誰一人計画することなどできません…。」
愛。
それが、世界に変革を生み出す数式。
私の英雄の譜面に欠けた、気高い一音なのか。
それがあれば、それにもっと早く気付いていれば、
私は…英雄に…なれたのだろうか…。
いや、過去を悔やんでいてはならない。
妻へ、そして生まれ来る息子へ
この完全への数式を……
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